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2006年03月12日

3月11日(土)

 そんなわけでさくらインターネット版nombi雑記1周年を迎えました。通算では2年3ヶ月になりますね。なかなか長い。二年目はもう少し長文エントリを増やしたいですね。よろしくお願いします。


 マルチプレイ続きー。
 1939年前半は正に嵐の前の静けさといった状況であった。イタリアは戦車×1、歩兵×1、守備隊×2、潜水艦×4という生産体制で軍備を増強。研究も着実に進み、大兵力を養う下地ができてきた。また、外国工場利用の能力を持つ閣僚が登場し、イタリアの工業力はさらに高まる。

 1939年9月1日、ドイツがとうとう動きだす。ドイツのポーランド侵攻により、連合VS枢軸の戦争がとうとう始まったのだ。ドイツの開戦とともにイタリアはドイツと軍事同盟を結ぶ。こうして、当時、ヨーロッパにおける陸軍戦力1位(ドイツ)、2位(イタリア)による枢軸のヨーロッパ戦争が始まった。

 電撃戦によりドイツはポーランドを3週間弱で併合。間に合うかどうかが危惧された3号戦車も間に合ったようだ。ドイツの東端はとうとう、ソ連領に達した。さて、ドイツがポーランドを侵略している時、イタリアは何をしていたのか。

 イタリア・フランス国境については、ドイツがフランス戦に乗り出すまでは放置である。イタリアだけ(スペインも対フランス戦に乗り出してはいたが)でフランス全軍を相手にしようなど虫が良すぎる。そこで、旧トルコ領から中東を狙う。ここにはイギリス・フランス・イラク領があったが、兵力はそれほど投入されていない。まともにイギリス・フランスの相手をできないイタリアにとってはいい相手である。

 ドイツのポーランド宣戦とともに中東戦線で進軍を開始したイタリア軍は、電撃戦を行うほど機械化されていないために歩兵でゆっくり進軍。イラク方面と地中海方面の2方面軍を作り、着実に侵攻していく。10月にドイツがフランス侵攻を開始したため、フランス戦線も動かし始めるがこちらは一進一退の攻防が続く。中東では11月23日にイラク方面軍がイラクを併合する。さらに、地中海方面軍が地中海をぐるっとまわってスエズに到達したのは1940年の1月3日であった。とうとうイタリアは地中海の覇権を握るために必要なポイントの一つ、スエズを落としたのである(スエズを領有している国がスエズ運河の通過権を握ることができるため)。そのまま北アフリカに侵入するものの、予想以上におおいイギリス兵がいたため、翌年の対ソ作戦を見越してスエズまで戻る。以来、スエズ運河をはさんでイタリアと連合国が10師団以上を置いてにらみ合う時代が始まった。また、イタリアがスエズに到達した同日、フランスにヴィシー政府が誕生し、フランス戦線は終了を迎える。

 さて、スエズを取ったことによりイタリアの地中海覇権には近づいたが、肝心の海軍はどうだったのだろうか。北アフリカ・アレキサンドリア港にイギリスの大艦隊がいることをしっていたイタリアは、北ヨーロッパ戦線にそれらの大艦隊を向かわせないために潜水艦隊を中心とした艦隊を地中海に配備しておいた。だがしかし、イギリスとの戦いにおいてイタリア海軍は戦力の90%を失った。空母を持つイギリス海軍にイタリア海軍はボコボコ沈められていった。最悪だったのは1940年4月1日のアレキサンドリア海戦である。ここでイタリア軍は24潜水艦を失い、ほぼ地中海の制海権を失った。現在、潜水艦隊を再生産中であるが、制海権は取り戻せるのであろうか…。

 また、地中海を占う上で重要なジブラルタルも未だ落とせてはいない。最初はスペイン軍だけで十分だろうと思われたジブラルタルであったが弱兵のスペイン軍単独では逆にスペイン国内を侵攻されるおそれがあったため、急遽ドイツが戦力を投入。敵をジブラルタルにまで追い詰めるものの、そこからが大苦戦。さらなる兵力の配備を待つこととなった。

 1940年年末の勢力図は以下のようになっている。

投稿者 nombi : 2006年03月12日 02:54

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